Motel Chronicles


■2003年12月2日

先月は3週間の休みをもらって、久しぶりにリフレッシュしていました。
とはいえ、最初の10日間は打ち合わせや友人エンジニアのピンチヒッターやらで
結局何となく仕事をしていたような気がします。
それで最後の10日間はエイッとばかりに、久しぶりにアメリカに旅行して来ました。

それほど日程的に余裕のある旅ではなかったのですが、2カ所にポイントを絞り
合計7回飛行機を乗り継ぎました。
最初の訪問地はマイナス10度以下の極寒地。
ちょっと甘く見ていました。
ワイオミング州の山中になるのですが、一応ネット上では天気予報を見てから
行ったにもかかわらず粉雪が降り続く一面銀世界でした。
20年ぶりくらいになる本格的な雪道ドライブをしながら国立公園のような所へ行って、
バイソンやらミュール鹿などを間近に見たり、一日ぼーっとホテルの部屋から
雪景色を眺めながらお風呂に入ったりと、贅沢な時間を過ごして来ました。

ただ、休暇旅行とはいえ目的はあくまでも写真を撮ることであって、
それは今後出るであろうCDのジャケット用であったり、もしかしたらの
DVD用であったりと、やはりどこかには「仕事」というものを
引きずっていたりします。
悲しい性であります。
ただ今回発見したのは「寒さ」に慣れていない私には、写真撮影や被写体に
なるということはとても無理だということ。
スターダストのような粉雪が舞う中、晴天なのに風がびゅーびゅー吹き裂く中、
体力、気力は著しく低下します。
特に太陽が出た時の雪に反射する光のまぶしさは尋常ではなく、
撮るほうも撮られるほうもこれは無理だなぁ、という感じでした。
それと目的地までの慣れていない雪中ドライブも結構緊張が強くて、
気がつかないうちに疲労していたりします。
まぁ、それだけでも勉強ができたのはよかったですが...。

2カ所目はうってかわってアリゾナ州。
バッファロー'66という映画を撮ったヴィンセント・ギャロが
新しいロードムービーを発表した時も、
「アメリカの荒野のドライブは本当に素晴らしい。すべての美しさがそこにある」
と言っていたのを思い出すほど、やっぱり美しかったです。
私自身、何度も見ているはずの風景なのにすっかり忘れているというか、
これほど奇麗だっけ?と思わずうなってしまうほどでした。
そう、記憶出来ないほどの美しさなのです。
特に日が暮れるとき、朝日が昇るとき。
いつも絶対忘れない!!と思いながら、結局はその瞬間を目のあたりにすると
私の記憶はいったいなんだったのだろう、というくらい吹っ飛んでしまいます。
たぶん、写真でも絵でも音楽でも表現出来ない光と陰と空気感、音、風、草木の匂い、
宇宙までありそうな巨大な空間というものには、ただただ打ちのめされるばかりです。
うーん、アメリカという大陸(自然)は偉大だなぁ。

さて、今年になってから私はとても飛行機についてない。
今回7回もの乗り継ぎをしたけれど、全部がひどかった。
成田からサンフランシスコに向かった飛行機は、着陸する少し前で緊急回避。
急に上昇を始める飛行機の尋常でない感じは、忘れられません。
サンフランシスコから先の国内線は、すべてがディレイ。
次の乗り継ぎに間に合うかどうかハラハラしながら、いつ飛ぶかもわからない
フライトをロビーで待ち続けるのは精神的に辛いものです。
ディレイが長引くと搭乗口の案内も消えてしまうし、いきなりアナウンスが
あって搭乗が始まったり。
しかも遅れる原因が天候だったらわかるのですが、飛行機のコンピューターが
調子悪いのでソフトをインストールし直す、とか、テストフライトが
芳しくなかったのでこれからほかの機材(飛行機)を探します、とか
普段聞いたことのないものばかり。
もちろんワイオミングのほうは雪による遅れがひどくて、最初に乗った
飛行機が2時間遅れ。
あぁもう次はダメだなぁ、と思っていたら次は4時間遅れ。
ロサンゼルスでのトランジットで、帰国の便には出発時間10分前に
チェックインカウンターに着いたくらいなのですが、それでもミスすることなく
帰れたのはほとんど奇跡と言っていいでしょう。
でもやっぱりカバンは成田で出て来なくて、今年は海外出張が少ないとはいえ
カバンの出てくる確率は1勝4敗です。
この間のスペインでは撮影用チェロが出て来ませんでしたから...
 
それと空港のチェックインのセキュリティも尋常ではないですね。
テロ直後、アメリカ国内の飛行機に乗ったこともありますが、それ以上に厳しくなって、
私の場合、靴はもちろんパンツのベルトを外してエックス線にかける。
それでも人体のほうはアラームが鳴ってしまうほど...
身体チェック用の検査機ではポケットに入っていたガムの銀紙ですら反応していました。
 
 
 
話は変わりますが、最近テレビの視聴率の問題が大きく取り上げられていますね。
もちろん視聴率を操作しようとしたことが悪いのですけれど、やっぱり
いいものを作ってその結果であって欲しいものです。

ただ、テレビはそういうものではないだろうな、ということも最近感じています。
現在私が音楽担当しているドラマ「ライオン先生」もとても苦戦していて、
視聴率はたぶん聞いたことのないような低い数字だったと思います。
打ち切りにだけはなって欲しくないのですが...

いいものを作っただけでも視聴率は伸びない。
それは今のテレビの番組内容を見ればよくわかります。
とてもいいドキュメンタリーや取材番組があっても、
素晴らしい動物の生態記録番組があっても、視聴率があるのはバラエティもの...
それが悪いというわけではありませんけれど、結局視聴者が見たいのは
そういうものであって、作る側もそういうものを作る、ただそれだけ。
見る側も作る側もよくわかっているのです。

私はドラマの音楽という形でテレビ番組の制作側に参加しているわけですけれど、
音楽そのものはいつもと何も変わらないのです。
私の中では。
自分のソロアルバムとスタンスは少し違うけれど、そこにかける時間や
お金は下手をするとソロアルバムより大きかったりしますし、
CDも発売されるからそのCD自体のクオリティも心して考えなければいけない。
制作に関わる人すべてがそのようなスタンスで、自分の仕事をこなしていけば
何も問題はないかと思うのですが、でも最近少し違うことを感じ始めてはいます。

先日のスペインロケのようなテレビに出演するということ。
これは私の中ではとても特殊な感じです。
音楽制作とも映画とも、コンサートなどともあらゆるものと全然違う。
いい言葉が出て来ませんが、一過性がとても強いのです。
すべてがその瞬間でしかなく、その後のその映像に関する責任みたいなものは
自分の手から完全に離れてしまうのです。
音楽でしたらCDが出来上がる、その一歩手前まで自分の責任で作業が出来ます。
でもテレビの場合はカメラがまわっている間だけでしか、
自分でいることは出来ないのです。

例えば道浪漫のロケですと、30分という番組ですが旅に出ているのは一週間くらい。
撮影時間は一日たとえば4時間まわしたとしても30時間。
本当はもっともっと多いかと思いますが、それを30分にまとめる。
正確にはコマーシャルが入るから20分強。
そして編集はディレクターの仕事となるわけですが、それには私は一切の口出しは
出来ません。
放送前には自分の映像すら見ることが許されないのです。
番組は制作ディレクター、プロデューサー、テレビ局側の人たちによって
「作られる」わけです。
私の責任持てる場所はカメラがまわっている瞬間だけ。
でもそれさえカメラが止まった瞬間、その前後左右、物事の背景、
私の心情などすべてがなくなります。
編集によって、私の声でないナレーションによって、どんな映像にも
作り替えることが出来ます。
今回はディレクターのミスで、チェロの演奏部分まで短く編集されていました。
一分での演奏でという指示があって、その時間内でスペインの印象を
即興で弾いたわけですが、それさえも短く編集されるということは、
どういうことか想像出来ますか?
 
「悪い」ということではないのです。
ただ、そういうものなんだなぁ、と。
 
スペインではどのくらいテープがまわっていたかはわかりませんが、
番組で流れた30分の後ろにはもっとたくさんの映像があったわけです。
もっとたくさんいろんなことを喋っているわけですけれど、すべて
ナレーションに置き換えられています。

それが決して「悪い」と言っているわけではありません。
そういうものだと、やっと最近になってわかって来たのです。
ドキュメンタリーでない限り、私が主人公となって旅をしていても、
それは企画をしたディレクターの見たいもの、視聴者に見せたいものを
私が代弁しているのです。
 
 
ドキュメンタリー番組でさえ最後には編集という作業はあるわけですから、
100時間取材をしたとしてもその中から映像を選ばなければいけない。
それは結局ディレクターが見たいもの、伝えたいものになってしまうのです。
たとえ100時間というテープを見せられたとしても、その中には
その映像以前に、真実以前にディレクター、カメラマンの意思は必ず入ってくる。
そして見る側の意思も。

同じ戦争の映像を見たとして、戦争をしている側、されている側、傍観者、
隣国、遠い国、戦争を知らない人、宗教の違い、習慣の違い、と、
100万人視聴者がいたら100万の見方がある。
そういうものだと。
それは作る側にも見る側にも。
人はそれぞれ見たいようにしか物事を見ることができない。

テレビに出演している人たちはカメラの前だけで済むから、次から次へと
仕事ができるのだなぁとも、最近思っています。
音楽制作は、特に私の作業の仕方ではとても大量に出来るものではありません。
ひとつのことにかける時間が長いですから...
コンサートは準備期間は長いですが、演奏している一瞬でしか自分という存在でしか
あり得ないから、少しテレビと似ているかもしれません。
でも、最初から演出(編集?)が決まっていて、時間軸が変わることがない。
つまり編集されることはないわけで...
 
私は最近まで自分の出演した番組を、すぐ見ることはありませんでした。
だいたい放送日から一週間とか下手をすると一年も見ないことも。
その意味も自分の中ではやっと理解出来るものになりつつあります。


でもやっぱりテレビのようなその瞬間だけでいい、というのもたまには
楽しいものです。
考え方によっては気が楽でもありますし...
そして旅番組は特にいろいろな発見がありますから、それは自分の為に
大事なことです。
先日もスペインもすごくいろいろなことを吸収しました。
また、何所かに行きたいなぁ。
でも今度やってみたいのは、やはりドキュメンタリーのようなものでしょうか。
先日のNHKに出演したときにも思ったのですが、ホスト役となって
誰かを迎え入れながら自分との関わりから世界を広げていく、というのが
とても楽しかったので。

とりとめのないものになってしまいました。
また近日中に。

クリスマスコンサート、来てくださいね。